【A】 大船高校の創立

(3) 画期的な校舎・教室・施設

◆「学ぶ者の立場」から造られた画期的な学校

県や学校と連携しながら校舎設計をしてくれた建築事務所の方が、「青船」(1984.10.6のp3)で書いているように、「従来、学校建築の設計は教育をする側の要求を満たす」施設でした。ところが、大船高校は「学ぶ者の立場」という言葉を初めて打ち出した、まさに画期的な学校だったのです。

記事には、「人間的全生活を大事にした、自らの学びの場」ともありますが、まさに大船高校のモットーは「楽しみながら自らを鍛える、自分から入門する場所」で、この言葉は、初代学校長の高木先生がいつも仰っていました。これが大船高校の建学の精神です。

「楽しみながら自分を鍛える」とありますが、学問とは、本当のところ「遊び」なのです。実は、学びには「遊ぶ」ということが大事で、だからこそ真剣にやるのです。これも生徒によく言っていた話ですが、中国の高僧が、若い修行僧に「おまえさん、どこで修行していたんだい?」と尋ねると、「天台山にいました」と言う。「では、さぞかし遊んだのだろうな」と高僧が言うと、修行僧は「いえ、天台山は修業が厳しいから遊んだりしていません」と答えたので、高僧は「じゃあ、本当に修行したことにはならないよ」と言ったという話です。この話は、年中言っていましたから当時の生徒は覚えていると思います。PTAにも話しました。要は、「学問は遊ぶくらいの気持ちで楽しんでやらなければ身につかない」ということです。

大船高校は「遊び」の場であり、生徒はここへ来て、のびのびと明るく、遊んでいるうちに勉強する。そういう環境を目指したのです。大船高校は、「学ぶ者の立場から造った」全国初めての学校だったのです。

「青船」(1984.10.6のp3)には、「教師と友の交流」とも書かれていますが、先生と生徒だけではなく、学校関係者、来訪者、そして街でもよく挨拶をしました。「地域や学校で会った方には挨拶をしなさい」とよく言いましたけれど、記事中に「来校中の私に挨拶してくれまして気持の良いものですね」と書いてあるように、生徒たちは見事にやってくれました。

(注)【B】−(7)項「大船高校整備特別委員会」参照

◆新しい学校づくりのモデル校

タイミングが良かったのは、PTAと学校で組織した「大船高校整備特別委員会」の委員長になってくださった日大建築学科の教授が、文部省の新しい学校建築の権威でいらしたことです。「新しい学校を目指す」ことを提唱していました。「学ぶ者の立場からの学校づくり」も先生の考えでした。これが大船高校にピッタリでしたので、保護者の中から先生に委員長になっていただいて、他校にも前例がない学校整備のための特別委員会として「大船高校整備特別委員会」(注)を作ったのです。

「青船」7号で先生が書いておられますが、今までの学校建築と違う「生徒達に明るい環境の良い学校を造ろう」という国(文部省)の構想があって、県が百校計画を進める中の18の新設校の1つが大船高校でしたので、「地域文化に根ざしたモデル校」を掲げ、「18校が同じではつまらない、1つぐらい何かモデル校を造れませんか」と県にお願いし、県が認めてくれたのです。

「学校建築に文化性を打ち出す」という、全く新しい発想でした。今までの学校には無いものです。この発想は当時、先生が考え出したものを、文部省が受け入れ、大船高校はそれを初めて具体化するのです。この表れが、冠木門風の校門や校倉造の体育館、高欄が神社建築のようなバルコニーとか、能舞台や広い展示ホールなどのユニークで新しい学校施設です。

そして「校長先生のなみなみならぬ熱意」もありました。時期とPTAと先生方の三者の組合せが良かったのです。

このあたりのことは、文部省の「教育と施設」という本の中にも載りました。

このように、大船高校は、全国でもあまりない贅沢な学校で、モデル校だったのです。先生も良いし、生徒も良いし、施設も良いのです。

(注)【B】−(7)項「大船高校整備特別委員会」参照。

◆文化性を打ち出した多彩な施設

開校当時、視聴覚教室の「能舞台」は、まだ作られておらず、色々と議論がありました。私は鎌倉薪能で20年ほどプログラム作りや解説放送を担当していましたので、こうした地域の伝統文化を活かしたいと思い、「能舞台の設置」を提案しました。これが国や県、学校の方針にピッタリ一致したので、実現しました。
当初、柱(目付柱と脇柱)は無く、あとで取り付けたのですが、視聴覚教室で映画などを見るには柱が邪魔になるので、取り外し可能にしました。私が金春(こんぱる)宗家まで設計図を持って行き、お許しを頂きました。また、舞台の脇の地謡(じうたい)座(ざ)は金春さんも「元々は無い」と仰っていたので、舞台を見やすくするために作らないことにしました。
この能舞台を設置した狙いは、最初は古典芸能を観たり、やったりするためでした。私が顧問で「古典芸能研究部」を作り、創立2年目の「校舎落成記念式典」では、部員の生徒が「三番叟(さんばそう)」を踊りました。

落成式の招待者が「さすがプロですね」と感心していたので、司会の先生に「古典芸能研究部の生徒がやっています」とアナウンスしてもらったら、皆びっくりしていました(笑)。2期生に能をやる生徒がいて、シテ方を目指していました。そういう生徒が出てくる面白い学校なのです。

能舞台のある「視聴覚教室」は、上履きを脱いで入って、座っても寝転んでもいいような、アットホームな気楽な部屋にしたかったのです。
舞台でやる能・歌舞伎や狂言は、今でこそ古典芸能になっていますが、昔は大衆芸能でした。だから「かしこまらずに気楽に観ればいい」と思っていました。 そして、授業以外でも、生徒が多目的に使える部屋にしたいと考えていました。
生徒が集まって何かしゃべっていてもいいし、そこに先生が加わってもいいし、研究発表の場でも良かったのです。文化祭ではそういう使い方をしました。まさに生徒や先生の交流の場、憩いの場でした。先ほど「学校は遊びの場」と言いましたけれど、典型的な遊びです。「遊びをやってみよう」というのが評判になりました。
今は授業以外で演劇部が使っていますね。ただ一つ残念なのは、舞台の上は磨いて、キレイにしておいてほしかったけれど、演劇部でペンキとか使うからか、最近はちょっと汚れてきましたね。でも、「生徒と先生の交流の場」の延長で、授業以外にも部活動が使ってくれていて嬉しいです。演劇部が良い成績を収めてきたのは、1つには、あのような舞台がある教室での練習が実ったこともあるのでしょう。

次に「個性化教室」である、「鎌倉文化教室」と、鎌倉彫の「美術工芸室」です。
これらの教室を設置した狙いは、「教育の成果を地域に発信しよう、地域の信頼を得よう」ということでした。保護者や地域の人を招いたり、他校の先生方の見学会を行ったりして、使い方を実際に見てもらいました。
  まず、「鎌倉文化教室」は、鎌倉の文化を身近に学べる教室として、視聴覚教材も使用し、主に私が担当する日本史など社会科の授業に使いました。教材として展示したのは、私が用意した鎌倉の古地図・浮世絵・絵画・写真などがありました。しかし、一番力を入れたのは、生徒の作品でした。毎年貼り出した「鎌倉歴史散策」のレポートは、生徒が鎌倉の歴史文化を調べ、現地に行って確認したもので、写真や絵入りの分かりやすいものが多く、授業で使ったり、次年度の鎌倉歴史散策の参考にしたりしました。私が顧問だった「歴史研究部」の生徒は、何度も鎌倉に行き、社寺の写真や模型やレポートを提出してくれて、これらは他校の先生方にも高く評価されました。生徒自ら楽しんで学ぶことができる、大船高校ならではの新しい教育の場でした。

次に、「美術工芸室」ですが、大船高校には「美術室」が2つあります。2つある学校は珍しいのですが、1つを鎌倉彫などが学べる「美術工芸室」としたことで併設可能になりました。施設が充実していたからか、最初から県の最高賞の教育長賞を毎年取って、「なぜ大船高校が、こんなにいいの?」と評判になりました。美術の先生も賞をとりました。素晴らしい活躍でした。
2つの美術室に加えて、生徒の美術作品を、教室や美術室ではなく展示ホールに展示したことで、嬉しくてやる気が出て、生徒のレベルアップにつながったのではないかと思います。2階にある展示ホールは、移動式で広くてのびのびしています。眺めも最高で、芙蓉の峰の富士山が見えて、県下の有名校も見下ろすなんて他の学校にはありません。 とにかく、環境や施設が良いので、先生も変わるし、生徒はもっと変わります。本当に、そういう学校なのです。

日本の伝統文化を生かして学ぶ「茶室」を造るに当たっても、「茶室」ではなく「作法室」を造るということで認められました。栄西以来の鎌倉文化を、茶道や作法(礼法)で学びました。

演習室」の狙いは「小集団学習」です。このような教室は、大船高校と同じ時期に建てられた学校から設置され始めました。
熱心な先生が多くて、ここで朝も補習をやっていて、「これはすごい」と驚きました。多くの先生が、放課後はもちろん、休日も補習をやっていました。
私は前任校ではたいして補習をやりませんでしたが、大船高校に来たら、「先生、放課後や夏休みに補習してください」と言ってくる生徒がいて、そのやる気に応えて一生懸命やりましたよ。こういう「先生と生徒の信頼関係」があって、楽しい学校でした。

弓道場」の建っている場所は、もとは駐輪場を造る予定でした。それを弓道場に変更したのは、自転車で学校見学に来た中学生が、帰りに手放し運転であの坂道を一気に下るのを見て、「これはまずい、こんな中学生が入ってきたら事故が起きてしまう」と思ったからです。
自転車通学を禁止にして、そこに県下初の鉄骨造の弓道場を建てました。創立2年目の6月に完成しました。当時、あれだけ広い弓道場は他の高校には無く、大学並みでした。鎌倉の武道の場として、相応しいものでした。
当初の計画を変更するのは大変でしたが、「大船高校整備特別委員会」(注)のおかげで弓道場への変更が認められました。交通事故を起こしたら評判も落ちますから、駐輪場にしなくて良かったと思います。
大船高校は駅から離れていて不便なので、自転車で来たい生徒から不満も出ましたが、我慢してもらうしかないと説得しました。また、私たちが運動して大船駅からのバスも通しました。

(注)【B】−(7)項「大船高校整備特別委員会」参照

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