【B】 PTA発足と「大船高校整備特別委員会」

(7)大船高校整備特別委員会

この委員会は、鎌倉の歴史的・文化的特性を生かした特色ある学校造りのために、地域の優れた教育資源を導入しようと考え、PTAの協力をお願いして組織しました。尾上教頭先生と私も委員会に入りました。

保護者の中から委員長を引き受けてくださった、日大工学部の関沢勝一先生は学校建築の専門家で、当時、文部省の中で新しい学校造りを目指す中心メンバーでした。
これは大船高校にとっては幸いでした。また委員の中にも横浜国立大学工学部の長島孝一先生がいて、イギリス人の奥様も専門家で、ご夫妻で斬新な建築をされている方たちでしたので、面白いアイディアを色々いただきました。
学校造りにPTAがこれだけ関与できるなんて有り得ませんし、聞いたこともありませんでした。
他の学校にだってPTAの中に1人くらいは建築関係者がいたかもしれませんが、3人もいて、チームになって力を貸してもらえるなんて、なかなか無いことです。
建築事務所との連携も他校ではありませんでした。

ちょうど「第三期工事」で北棟の能舞台が未完成で、まだ色々アイディアを入れられる時期でしたし、外溝工事はこの委員会が全面的に任されたので、案を作り、県に提出したところ、「十分に参考にします」という回答をもらえまして、嬉しかったですよ。
PTAが音頭をとって、学校も一緒に学校造りをやろうというのですから、前代未聞でしたし、未だにこんな学校はないでしょう。
しかも、それが文部省レベルの話になり、文部省の冊子にも掲載されました。

この特別委員会からの提案が実ったのは、「植栽」「校門」「中庭」です。
まず、「植栽」は、風致地区ということもあって、かなりお金をかけてもらいました。
今は茂って立派になりましたけれど、最初は貧弱でした。生徒・学校・PTAで、植樹や花・鉢植えも、あちこちやりました。

西館昇降口前の階段のあたり、今は斜面になっていますが、あれはこの委員会で斜面や植栽などを色々考えたのです。

ちなみに、シンボルツリーではありませんが、職員玄関の脇に、鎌倉彫の原料となる「桂」の木を並べて植えました。
大船高校には、鎌倉彫の美術工芸室もあるので、生徒に「桂が鎌倉彫の木だ」と教えたくて、植えてもらいました。
これが結構評判で、新聞社などが取材に来ました。今、幹の径が40cmを越えたくらいでしたね。
30年前に植えた時は、径が30cmくらいだったので、ちょっと成長していますね。
そういえば、高木校長先生から「どのくらいで鎌倉彫を彫れるようになるか」と聞かれて、「100年後」と答えたら、ガッカリしていました。
今で樹齢60年くらいなので、あと40年くらい経たないと…。北海道の木で木目が細かいですから、成長が遅いのです。

校門」は、冠木門(かぶきもん)風です。本当の冠木門は、柱の上の横木が出っぱるのですが、横に出したら危ないとの指摘があり、無くしました。
冠木門は、鎌倉を代表する建長寺にありました。鎌倉市立御成(おなり)小学校には現存していますが、この冠木門は元は明治天皇の皇女の御用邸の門だったので、学校名とは関係なく「御成門」とも呼ばれていました。
御成小にある冠木門は「御用邸文化」とも言える鎌倉の近代文化の象徴なのです。
鎌倉の近代文化の特色は別荘文化で加賀前田家の別荘などもあったのですが、鎌倉の一番の信用の元は、御用邸があるということでした。

その結果、鎌倉に別荘が増え、海水浴など観光客も増えて、鎌倉の近代化の基になるのです。
ちなみに、鎌倉彫の中心人物だった後藤俊太郎さんによると、鎌倉彫というのは御用邸に納めるから信用が出たそうです。
鎌倉の近代化の基になった御用邸文化の御成門が冠木門なので、これを大船高校の校門に取り入れたかったのです。
でも、横木が出ていないので、冠木門というより額縁といった感じですが…まぁいいでしょう(笑)。

校門の下には凸凹道を造り、「修行の場に目を覚まして入門しよう」という関門の意味を込めました。

校門からのアプローチの両脇は、今は木が育っていますけれど、最初は木や花を植えたものの、どうしても淋しいので、鉢植えを一生懸命並べました。
それだけでも来校者には驚かれましたが、それを生徒と一緒にやっていることにも驚かれました。
ふつうは、生徒が壊したり、いたずらしたりするのに、大船高校ではそれは絶対にありませんでした。
夏休みにだって水やりして、この学校は自分たちがいつも育てているという自覚が生徒にもあったからです。
学校というのは環境や教育で変わるんだなぁと思いましたね。

西棟前の整備に続き、中庭が一番大変でした。
和風庭園で、本来は池泉回遊式という、建長寺や円覚寺の庭や鶴岡八幡宮の周りのように池のある庭にしたかったのです。
ところが、生徒が落ちたら危ないから水を張るなと言われてしまいました。
その代わり「枯山水」という、曲がった道や階段状の石段を造りました。
これは、枯山水だけじゃなくて、お城の石垣のイメージもあるのです。かつて「鎌倉城」という考えがあり、鎌倉の周りは切通しの砦や杉本城・玉縄城などのお城が取り巻いていました。
そういうイメージをあの狭い中庭に盛り込んで、四季の変化をつけました。
ここに、とにかく樹木を植えて、生徒の憩いの場・交流の場としました。

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